「生活習慣病」と家庭経済生活との
融合的研究は可能か?


中京大学商学部・総合政策学部 田中 譲
プロフィール


 疫学が,病気や死(またはその対になる健康や成長)の現状分析や診断と病因解明,治療・予防技法に関わる,優れて実践的・即戦力的な研究である,と私には理解できます。このように理解される疫学から,表題で示したテーマのために,私は何を汲み取るべきでしょうか?生活習慣病関連の報告を中心とした統計的実証データの収集でしょうか?確かにそれは,現実的で,手堅い経済生活(即ち病気を呼び込まない経済生活。病気になれば経済どころではない)のためには重要です。しかし,それが全てでしょうか?


 先ず,ニュースレターの新企画への執筆にご指名頂き,編集委員会関係各位に感謝申し上げます。2004年度新会員として,疫学への興味や感想,期待等について書くようにとのことですが,記述内容の適切性に関しては,正直申して確信はもてません。社会科学の経済系分野に携わってきた私は,教育・研究上の出自や内容の点で,本学会の殆どの方々とは異質であり,疫学や医学の素人だからです。そこで,この投稿では,疫学分野の方々にも目を通して頂ける表現で私の研究関心を紹介するように工夫しながら,興味を経済の世界から,疫学や医学という全く別な世界にも移してきた動機を語ってみます。

疾病リスクの源泉にもなる消費財

 現在の私の関心を,疫学分野で周知の言葉も使って凝縮的に述べれば,表題のようになるでしょうか。病気と,私の研究での基本視点である家庭経済とを,繋がりのある議論の中に融合させることが,私の狙いです。そうした意図をもつ私には,家庭経済生活(即ち,一つ屋根の下で通常家族を成して暮らす構成員が,労働や消費等の活動を通じて,様々な欲望を充たす営み)と病気との組み合わせは,確かに興味深く思えます。その第一の理由は,その組み合わせが,家庭経済と共に消費財にも注目して物質経済の研究を考えてきた私に,研究展開の契機を与えるからです。即ち,売買対象である消費財が,経済学の重視する価格・取引量以外に,経済学的に捨象される物質的側面をもつことは,自然科学的な常識です。そして,財を使う人間にとって,各種の利便や快適,快感等を与えるだけでなく,消費時での曝露を通じて疾病リスクの源泉にもなるのが,財の物質面に他なりません。理由の第二は,消費財が関わる病気の実例や容疑例の存在です。酒類や煙草は周知の事例です。更に近年,豊かな消費生活を演出する便利な機器や楽しい品々が,人間の様々な体調不良や病気の発生に関与していることが,医学的に報告され,或いは疑われています。他生物には類例がないほど進化した脳と知識に恵まれ,幾多の文化・文明を勃興させてきた人間が,彼らの文化・文明の一部となる消費財及び豊かな物質生活を求めて欲望を全開させてきた付けを,自身の生物的側面を傷つける病気という形で支払うようになってきたのです。

求められる知識の新結合

 さて,病気と家庭経済という融合的研究テーマは,その二つの分析対象故に,専門科学の発想では恐らく対処できません。なぜなら病気は,生物としての人間(ホモ・ナトゥーラ)を扱う生理学や医学の守備範囲である一方,家庭経済生活の分析は,経済人(ホモ・エコノミクス)としての人間を扱う経済学に代表される経済知識の担当だからです。従って,両者の融合的研究を進めるには,生理学・医学系分野と経済系分野の各知識の新結合(専門知の単なる分野毎の羅列だけでは融合にはならないでしょう)が必要です。文系と理系の両知識の間柄については,親和性よりも不仲の方を説く議論が知られてきました。曰く,進化論とポストモダン思想の関係(R・フォーリー『ホミニッド』金井訳,大月書店,1997年,16頁,250頁),C・P・スノーの『二つの文化と科学革命』(松井訳,みすず書房,1978年)。しかし,例えば二足歩行の人類への進化を,その移動方式が類人猿のナックルウォーキングに比べて有利なエネルギー効率の高さ(即ちエネルギーコストの安さ)という一種の経済学的視点で説明する議論の実例もありますから(前掲『ホミニッド』172-176頁),病気と家庭経済の融合的研究も,前途は平坦ではないとしても,その成否は,やってみなければ分かりません。

経済系知識を足場として

 私が疫学会を覗いてみようとした理由は,以上で述べた融合的研究を,経済系知識を足場として,少なくとも個人レベルで進めるときのヒントや刺激を探すためなのです(念のために述べたいのですが,私がここで指摘する家庭経済と病気との融合的研究は,理屈上は,経済系及び医学系どちらを出発点としてもアプローチ可能です。但し両者共,出発時点で保持してはいない思考法や知識は,もしそれが研究過程で必要であれば,可能な範囲で補充しなければなりません)。英米での疫学の発展を概観するW・W・ホランドの『疫学公衆衛生研究の潮流---英米の20世紀』(柳川・児玉監訳,日本公衆衛生協会,2004年)は,疫学の問題意識の概略を教えてくれます。同書によれば,両大戦間には,感染症の蔓延要因と対策,病気の罹患率や死亡率,健康・成長や病気・死亡に関わる産業・労働上の要因や栄養的要因等の研究が進みました。更に第二次大戦後から20世紀末には,ワクチンやサーベイランスシステムの開発に関わる感染症研究,質問票,家族研究・集団研究,診断・測定技術,統計処理等の方法論研究,各種疾患とリスク因子の研究等で成果が生じました。同書の紹介から,疫学が,病気や死(またはその対になる健康や成長)の現状分析や診断と病因解明,治療・予防技法に関わる,優れて実践的・即戦力的な研究である,と私には理解できます。このように理解される疫学から,表題で示したテーマのために,私は何を汲み取るべきでしょうか?生活習慣病関連の報告を中心とした統計的実証データの収集でしょうか?確かにそれは,現実的で,手堅い経済生活(即ち病気を呼び込まない経済生活。病気になれば経済どころではない)のためには重要です。しかし,それが全てでしょうか?以下では,機会があれば疫学分野の方々からご教示やご意見を頂きたい論点を,表題に示したテーマの展開との関連で,実証面というよりは思考枠組みの問題として提起致します。

病気を呼び込まない経済生活のためのささやかな一歩

 表題の生活習慣病という言葉に,私は括弧を付けました。理由は,(1)その言葉が,医療・治療の現場で何時しか使われ始め,定着していった一種の慣用句なのではないか(例えば米国ヤフーで,life- style diseaseという英語表現でネット検索しても,それを扱った医学的議論や論文よりも,会社や非営利組織の健康サイトを紹介される回数の方が多い),(2)従ってその言葉が,学術的精緻化の課題を依然抱えており,議論の余地が多分に残っているのではないか,という私の個人的印象を,その括弧に込めたかったからです。医学分野では,病気に関わる生活習慣として,例えば食事,飲酒,喫煙という代謝や循環の機能に関わる飲食,及び両機能に影響する運動に関心が注がれるようですが,飲食や運動だけが生活習慣ではありません。既述のように,豊かな社会では便利な(従って肉体を運動不足にする)機器や楽しい品物が習慣的に消費され,人々の生活様式を形作っています。人間は,文明化・近代化(そして日本では西洋化)の過程でそれらの品物の存在を自らの脳に刻み込み,それらの物質に即座に反応する欲望を形成し,それに囚われるようになってきたのです。私は,こうした人間の生活や生活習慣を一定の枠組みで把握・整理し,それを病気と関連付けて考えてみることが,「生活習慣病」を体系的に理解する研究やその治療や予防,更に病気を呼び込まない経済生活のためのささやかな一歩となるのではないか,と思っています。

前途険しい融合的研究方法

 以上,この投稿では,私が疫学会を覗いてみようとした動機を,病気と家庭経済との融合的研究の展開への期待として述べました。そのテーマを特徴付ける融合的研究方法の前途は,既述のとおり険しいでしょう。その研究手法は,経済学分野の言葉を使えば,「超学的」(トランス・ディシプリナリー)研究ということになります。それは,北欧経済学の巨人G・ミュルダールが,経済的要素に専念する主流派の純粋経済学から逸脱して,政治的要素も考慮する異端の制度的経済学の構築へと向かった彼自身の研究遍歴と共に,来るべき経済学の方向である制度的経済学について講演した際に使った言葉です(American Economic Review,Vol.62,No.2,1972,pp.456-462)。彼は,少なくとも幾人かの研究者は,その野心を広げて,専門領域の外側の諸事実とその諸関係に精通するようにせよと主張し,更に次のように述べています----「私は専門分野の間の境界は越えられるべきであると信じる。研究の焦点は,特定の問題の領域に当てられるべきなのであり,伝統が定めてきた個別の専門に限定されるべきではない」(ibid,p.462)。私にとっては,誠にうれしい,感極まるミュルダールの言葉です。疫学分野でも,家庭経済という視点も加味して病気を複眼的に議論し,研究することに,少しでも多くの方々が興味をもって下さり,従来とは一味違った議論や研究が展開されていくことを,私は期待します。