EBM,臨床疫学あれこれ


財団法人 日本医療機能評価機構 副理事長・専務理事 高原 亮治
プロフィール


 事象皆すべて始めがあれば終わりがある。したがって今を盛りと見えるEBM(Evidence Based Medicine)も盛りは終わったと見て“遺されたものは何か”というのもお先走りのジャーナリズムのあり方だろう。EBMが流行り始めたころ,ブームとみて一応賛成はしたのだが,やはりついてゆけないし,いっそ終わって欲しいという権威者の気分は発展に“比例”して強くなる,というメカニズムは分からなくもない。しかし,EBMは単なる流行ものの医学思想ではない。終わりのはじめではなく初めの終わりなのである。

西欧哲学の王道に根ざすEBM

 EBMという言葉がGuyatt GHによって唱導されたのが1991年。それから数年後にSackett DLや Gray Mらによって,ありふれたEBM批判に対するある種の共同宣言が書かれて,それ以降たいした新しい論点は提起されているようにはみえない。
 世界的に医療政策に最大の影響力をもつHealth Affairs誌は,ACP(American College of Physicians)を軸足にガイドラインの方法論に大きな影響を与えたEddyの論文を中心にEBM特集を組んでいる。Evidence basedという言葉は他の領域例えば,犯罪心理学にも広がろうとしている。簡単に遺産相続の話が出る雰囲気はない。
 EBMという言葉自体はGuyatt GHがMcMasterのresident programの主任として旗色を明らかにする言葉(最初はscience basedと称する予定だった由)として用いた。(前出のEddyには異論がありそうである)それまで臨床疫学という言葉で話されていた中身もこのネーミングによってマーケットが急速に拡大した。
 論理実証主義哲学者のAyer AJが70年代にコロンビア大学でProbability and evidenceという講義をして,それが出版された。哲学といっても日本の医師が想像するような人生相談のタネ本とか,あるいは理科の嫌いな青年が長じて科学批判をもっともらしくやるといった事ではない。英米哲学はHume以来,科学哲学(哲学というのが日本的に誤ったイメージを与えるなら,むしろ「科学基礎論」というべきかもしれない)が一つの主流である。科学的議論の方法には大きく分けて演繹と帰納があるというのは高等学校で学んでいるとおりである。医学は基本的に帰納的方法論によっている。その帰納法に18世紀David Humeがかなり根本的な批判をおこなった。天文学や物理学はともかく,医学を始めとするおおよそ応用科学は,帰納科学の様相をもっている。こういった諸科学はHumeの批判に従って「非科学」ということになるのだろうか。単純にいうと,帰納法の欠点とされていることは,100羽のカラスをみて皆黒かったとしても,101羽目のカラスが黒いという論拠にはならないというものだ。帰納法による全称命題の証明不可能性である。しかし数羽みてみな黒ければ次も黒いでしょう,少なくとも黒い可能性が高いでしょうというのが娑婆の論理で経験というもの。そういった文脈で確率と証拠という話が出てきて,臨床疫学に通底する。EBMは昨日や今日流行りはじめた議論ではなく西欧哲学の王道に根ざしている。たとえば“evidence-based medicine”“logical positivism”でググればわかる。
 ちなみにEBMは科学哲学でいうパラダイムシフトだというEBMの導師がいる。これは言いすぎだと思う。そもそもパラダイムシフトというべき科学発展というものはない,という議論もある。

EBMが嫌うのは経験ではなく,経験を直視しない目のくもり

 EBMは臨床経験を否定するという説がある。これはとてつもない歪曲である。EBM(臨床疫学)の形成に最も影響を与えたSackettやFeinsteinなどの疫学者の70年代の関心は,疫学研究におけるbiasの研究であった。Biasというのは一つひとつの経験を積み重ねて一つの“物の考え方”を形成する過程に生じる歪みである。疫学におけるbias論は認知過程におけるbiasをどうすれば避けられるかという,経験を思い込みのワナから救い出す方法論である。
 どうすれば柳は緑,花くれない,一つひとつの経験が思い込みによってゆがめられないで総括できるのか。これが臨床疫学,EBMの出発点である。
 Publication biasは別としておおかたのbiasはRCTで対応できるということになり,それがevidence hierarchy(http://www.nsite.ca/sackett/uploads/collections/76897196.pdf)となっている。原型はSackettやFlecherが活躍した,70年代後半カナダの定期健診タスクフォースが採用したものが,今日に至っている。EBMが嫌うのは経験ではなく,経験を直視しない目のくもりであり,意見なのである。客観的な事実問題を聞かれれば一人称で答え,意見を聞かれれば他人の引用をする,主観,客観取り違え,カン違いの先生のことである。

根拠が明示できない意見に基づく意見はラッキョウ

 ところで,臨床医達のEBMの経験否定という不満はむしろ,臨床家達の体得した言語化できない能力をどうしてくれるということではなかろうか。これはPorannyのいう暗黙知といわれる領域である。Gray Mはこの問題を日本の経営学者野中郁次郎のKnowledge Managementに解決策があると思っているようである。これは日本の工場労働者の集団において熟練工の技術をどう共有するかといった研究で,暗黙知とexplicit knowledgeのダイナミックな相互転化の論理化である。
 EBMとガイドラインの関係は単純ではない。EBMは前述のとおり意見を嫌う。ガイドラインは意見である。正統的なEBM的意思決定が大切といっても,別な患者が来るたびに新しくsystematic reviewができるものではない。したがって最近の進歩を網羅して根拠を評価してくれたものが手近にあれば,これは便利である。根拠に基づくガイドラインというのはこれである。根拠に基づく意見であり,有用である。しかし根拠が明示できない意見に基づく意見というのはラッキョウである。とりあえず妥協というか,意見調整で落としどころをさぐる領域が無いとはいわないが,それなりの根拠証拠がある場合はそれに従いましょうね,とはいっておかなければならないことだろう。さらに,最近注目されているN=1という手法は根拠が見つからなかったり,患者の個人差にガイドライン的根拠を適応したりするのに,ある程度使えるのだろう。
 EBM批判として語られる,例え統計学的に1%の危険率であっても,死ぬ時は死ぬし,1%の救命率でも助かる時には助かる。統計的evidenceというものは生死のような1回こっきりの決断には役に立たないとする。これはプラグマチストのPierceが提起した古い問題の医学版である。赤と青のトランプの山がある。一枚ずつ両方の山から取って入れ替える。一枚だけ引いて,青いカードを取ったものは天国,赤いカードを取ったものは地獄行きになるとする。大方のひとは青いカードの山から引く。しかし青い山にも赤いカードはある。このことは統計的な合理性と繰り返しのきかない個別の判断の関連如何という問題は十分解明されていない。最終的な決断は患者自身のみ可能であるという結論になる。

桜は散ってもEBMは終わらない

 EBMは,このように近代から現代に至る科学思想から多くのものを受け継いでいるし,また,共通の問題をかかえている。そういった意味でEBM疫学の思想は現代科学思想そのものであり,だからこそ普遍性を有しており,一過性の現象ではない。その中で疫学が中心的方法論に位置するのは,疫学が原因と結果の関係を明らかにするという,causalityの論理学そのものであるといえよう。このcausalityの議論もやはり70年代後半に発展し,Susser & Rothmannに結実する。RothmanはPopperianというがPopperとWittgensteinとのあの有名な喧嘩すら論点が分からないくらい似ている。
 特記しなければならないことは,“根拠を創る”creating evidenceの作業が急速に進みつつあることである。
 桜は散ってもEBMは終わらない。