第10回獣医疫学・経済学国際学会(International Symposium of Veterinary Epidemiology and Economics; 2003年11月チリ国開催)における発表において
BSEと
リスクコミュニケーション
(独)動物衛生研究所疫学研究部
予防疫学研究室 主任研究官
山根 逸郎
プロフィール
牛海綿状脳症(以下BSE),E型肝炎,SARS,鳥インフルエンザなどに代表されるように,近年多くの人獣共通感染症が問題となっております。この異常とも言える現象の理由の一つとして,交通の発達や人間の生活領域の拡大に伴い,それまで動物の中だけで回っていた疾病が人間の生活サイクルに入ってきたことが考えられます。またBSEに象徴されるように,生産効率のみを追求する飼養形態により各種の好まざる疾病が発生しております。
BSEやSARSの発生の時に世界中がパニックになったように,新たな人獣共通感染症の発生のたびに世の中が騒然とし,また科学的でない情報や風評による被害が少なからず起きています。そこで今回,感染症の発生に伴う風評被害と,社会的・経済的負担,真のリスクについて,BSEを例に挙げて解説致します。
BSEとは
BSEは異常プリオンが脳や脊髄などに蓄積して発生する疾病で,1986年に英国の牛で初めて確認されました。最初は牛だけの病気だと思われていましたが,1996年3月に英国政府が,BSEに感染した牛の脳脊髄などの摂食と変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(以下vCJD)との関連の可能性を発表したため,世界中が大騒ぎになりました。英国では現在までに約18万頭のBSEの発生報告がありますが,日本では2001年9月10日に千葉県で飼育されていた乳牛からの発生の報告以来,2004年7月までに11例の報告があります。
乳牛は平均して1日25kgぐらい,1年間にして8,000kgぐらいの乳を絞ります。1日25kgの搾乳ということは,乳牛の体重が600kgとすると,体重の1/24ぐらいの乳を毎日搾ることになります。これを支えるために,トウモロコシや大豆かすなどの高エネルギー,高蛋白質の飼料を牛に多量に給与して,搾乳に必要な栄養を乳牛に供給しますが,さらに利益を上げるために死亡した牛の体から肉骨粉という高蛋白質のものを生成し,それを牛に投与することにより発生したのがBSEです。
BSEの診断
BSEの牛の潜伏期間は,2年〜10年ぐらいと言われ,感染末期に起立不能などの神経症状を呈します。英国で報道されたテレビ番組で,BSE感染末期の牛が起立できずに倒れてしまう映像を見た方も多いかと思います。
BSEの確定診断としては,異常プリオン蛋白質が集積する脳の病理組織に神経内空胞を観察することや,脳の凍結組織切片上に免疫組織化学染色において変性したプリオン塊を観察すること,また脳組織からウェスタンブロッティング法により変性プリオンを検出する方法などがあります。これらの確定診断はその手技に時間がかかるため,食肉検査所(かつてのと畜場)におけるBSE検査では,と殺した牛の脳組織にELISA法を応用してBSEの疑いのある牛を摘発しています。一般にELISA法は敏感度が高く特異度が低いため,ELISA法で陽性となっても偽の陽性である可能性が高いです。そこでELISA法で陽性となった個体の脳サンプルは,特定の検査機関(国立感染症研究所など)に送られてBSEの確定診断が行われます。
2001年9月にわが国でBSEの初報告があり,まだ世の中が騒然としている頃に,関東のある行政機関で検査サンプルの中にELISA陽性の反応が出てしまいました。この時は「BSEクロ(非科学的な表現ですが)の牛が出た」という情報が先に報道機関に伝わり,夜のニュース番組などでもトップニュースとして久米宏さんが「2頭目発生か?詳しいことは分かり次第報道します」と放送しておりました。その40分後ぐらいにメモが久米さんに渡され,「確定診断で陰性と判定されました。良かったですね」と言い,さらに「だったら最初の検査は何だったのでしょうねー」とELISA検査に対して否定的な発言をしていたのが大変印象に残りました。ELISA検査の敏感度と特異度,偽の陽性が出る可能性があり,そのためにスクリーニング検査と確定診断という2段階のステップをおいていることを久米さんに理解してもらうのは無理でしょうか? あの久米さんの発言を受けて,多くの国民が「獣医師の診断はそれほど頼りないものか」などという間違った印象を持たれていないことを期待致します。
BSEによる経済的な損失
BSEの発生に伴って日本国中は大騒ぎになりましたが,一体どの程度の経済的な損失があったでしょうか? まず牛肉に対する不信感から牛肉の消費が大幅に落ち込み,牛肉の市場で取り引きされる価格が半分近くまで落ち込んだ時期もあり,肉牛の生産農家は多大な損失を被りました。また「牛肉は怖い」というイメージが先行し,焼き肉屋とかハンバーガー店など牛肉を提供するサービス業の売り上げの低下も著しかったようです。BSE騒ぎによって,牛肉の生産者から流通業者,販売店やレストランなど,多くの業界が多大な損失を被ったようです。
またBSEの発生に伴って,厚生労働省では食肉に関する法律を改正し,脳や脊髄などの特定危険部位は食肉検査所で徹底的に取り除き,他の肉との汚染を防ぐような工夫をするようになり,またと殺される牛の全頭検査を行うようになりました。そのため,全国の食肉検査所の各種の設備を改修し,検査員を増員するのに相当な費用がかかっております。またELISA検査用のプレートは,1枚96穴で20万円以上するそうで,ELISA検査のキット費用も膨大になることが考えられます。
さらに,「BSE全頭検査が始まる前にと殺された牛肉は,流通させるには問題がある」という観点より,農林水産省は膨大な資金を投入しBSE全頭検査前にと殺解体された牛肉の買い取り事業を行いました。この事業を悪用した業者の牛肉の偽装事件が発生し,政治問題まで発展したことは記憶に新しい出来事かと思います。
このようにBSEの発生に伴い,いろいろな部門において直接的,間接的な経費が使われ,その経済的な総損失は膨大なものになることが考えられます。
わが国におけるvCJDのリスク
BSE騒ぎの最中に,行政機関だけでなく私自身も多くの人から電話があり,「牛肉は大丈夫だろうか?」,「絶対安心と言えるの?」のような質問をしばしば受けました。このように食への恐怖が連鎖反応的なパニックを生んだ背景として,NHKがテレビで報道したvCJDの末期患者の悲惨な臨床症状とか,大事な脳を攻撃する疾病であること,熱を加えても異常プリオンが不活化されないこと,罹患すると治療法がないことなど,人々を怖がらせるに十分な各種の条件が整っていたことが考えられます。
それでは実際に牛肉の消費による人間のvCJDへの罹患のリスクはどれぐらいでしょうか? 英国では,肉を切り取った後の背骨を機械で潰した肉を食用に利用したことが人間のvCJDの発生(n≒150)につながったことが疑われていますが,わが国では2004年7月までに11例のBSEの報告しかなく,特定危険部位は食肉検査所で徹底的に取り除き,さらに全頭検査を行っているため,わが国の牛肉は限りなく安全であると思います。ある投稿によりますと,「日本において牛肉の消費によりvCJDに罹患するリスクは,ニューヨークでサダムフセインと一緒に朝食を取れるぐらいの確率である」とありましたが,日本における牛肉の消費によるvCJDへの罹患リスクとそれに対するヒステリックな反応への批判のように受け止められます。
ある解析によると,2001年の全頭検査以前において,日本におけるvCJDに感染する推定人数は,最大で0.04/1億2千万人としています
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。またこの報告では,特定危険部位の除去をすることにより,vCJDの発生の確率はさらに1/100(0.0004/1億2千万人)ぐらいになるとしており,全頭検査によりこのリスクはさらに3/4(0.0003/1億2千万人)に減少できるだけとしています。この数値の正確性は議論の余地がありますが,BSE発生数が少ないわが国において優先順位の高い対策は特定危険部位の除去であり,全頭検査は消費者への牛肉の安全性を印象付ける役割が主であることがうかがわれます。
一方,食肉検査所でBSEを発見した獣医師が,その対応について悩んだ末自殺した事件とか,国の在庫牛肉の買い取りをめぐった殺人事件など,BSEの真のvCJDへのリスクとは別の理由で犠牲者が出ています。また経営不振で失業に追い込まれた焼き肉店の経営者や,牛丼が店頭からなくなることにより牛丼を心の拠り所にしていた人々への影響など,いろいろなところで風評による被害者が出ているのも事実です。
脳内で異常プリオン蛋白質がELISAで摘発できるのは,BSE発症前のある特定の時期(6〜12ヶ月ぐらい)だけであるため,若い牛の検査は必要ないのではないか,という議論が現在なされています
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。それに対して消費者のグループは,少しでも危険があるものに関しては,安全のため全頭検査をすべきだ,という主張を曲げていないようです。全頭検査にかかる費用も社会的なコストであり,検査によりリスクがそれほど低減できないことを考慮すると,消費者団体ももう少し科学的な事実に目を向ける必要があると思います。
人や食料の流通も促進される中,今後益々各種の人獣共通感染症が発生することが考えられます。またテレビや新聞,インターネットなどを通じて各種の情報が素早く伝わる現代において,正しい情報を正確に共有することが不必要な騒ぎや無駄な経費の削減につながると思います。リスクコミュニケーションは,獣医学分野の疫学においても注目されている課題ですが,行政や消費者,科学者などが連携し,互いに正しい情報を共有することが特に重要と考えます。
参考文献
1)唐木英明 わが国におけるBSE対策の現状と課題.日本獣医師会雑誌 (2004) Vol 57 7月号 399-402.