書評

加賀美雅弘著「病気の地域差を読む;地理学からのアプローチ」(古今書院,2004,224p)


国立保健医療科学院疫学部 簑輪 眞澄


 昭和51年3月,国会の予算委員会で当時の坂口力委員から,新潟県青海町にクロロプレンの工場があり,ここではクロロプレンが工場から漏れて肺がん死亡率が高いのではないかという質問が出た。当時の厚生省による死亡統計は都道府県単位の集計しかしていないから答えられなかった。このことがきっかけとなって,わが国で一時的に地理医学あるいは地理疫学ブームが起こった。本書の著者である東京学芸大学の加賀美雅弘助教授は,そのような状況の中で知り合った仲である。

 しかし,彼らは疾病地理学とか医学地理学といい,「地理学」を被修飾語としていて,われわれの用語とは修飾語と被修飾語の関係が逆転している(地理疫学,地理医学)。本書では冒頭において,「病気の地域差に目を向けることによって,何がわかるのか。病気の地域差を描いた1枚の地図を見ることによって,そこから何を考えることができるのか。本書の課題は,こうした問いに対する答えを出すことにある」としている。さらに,「とはいえ,病気の地域差を示す地図を凝視して病気の原因を提示することが,本書の到達点ではない。病気の起こり方が場所によって異なることから,病気の治療や予防に役立つ情報を手に入れることに,この本の主題は置かれていない」と続いている。すなわちわれわれは後者の立場に立っていたのである。それに対して,…

 話はちょっと脱線する。1980年代だったと思うが,アンドロメダ星雲までの距離がそれまでは80万光年だと思われていたのが,測定方法が改善されたら160万光年だということがわかったというのである。80万光年だろうが160万光年だろうがわれわれの生活には何の関係もない(遠い遠い将来役に立つことがあるかもしれないが)。われわれの学んできた医学に対して,こういう学問もあるし,夢の多い学問でもある。こっちの方がほんとの学問かもしれない。(前記の「それに対して,」に続く)こういうのが「地理学」であり,疾病地理学とか医学地理学というのもそういうものだと理解することにした。科学少年であり,地理少年であった私も,実のところはそういう世界に憧れていたのかもしれない。医学部に入ったことが間違っていたのかもしれない。

 と思いながら,読み進める。なかでも各論の1章である「徴兵検査の個票でみた病気」が興味深い。第一,時代が第一次世界大戦直前のオーストリア・ハンガリー帝国の南チロル地方とトレンチーノ地方という現代とはかけ離れた舞台での,それも徴兵検査の成績を発端としながら,両地域の不適格者の割合,標高,産業,疾病(特に甲状腺腫とペラグラ),世界経済の影響,都市への人口流出,それにともなう人口の推移など,この2つの社会のさまざまな側面を理解しようとしているのである。もちろん甲状腺腫やペラグラを防ぐことに繋がる情報もあるだろうが,それが主体ではない。

 本書の構成は,総論として「本書の視覚」,「地域差を読む方法」および「分布図と研究史」の3章から,各論としては上記のほかに「日本の脳卒中」,「山形県の脳卒中」,「死因でみた日本の地域差」(これらのようにわれわれになじみの深いものもある),「徴兵検査でみた中央ヨーロッパの地域格差」および「教会簿でみた集落間の格差」があり,結論としては「場所と結びついた健康」の,全10章からなっている。

 この本が疫学者にとって役に立つとか,ましてや必須だといってお勧めするわけではない。むしろ,こういうことを研究している人もいるのか,こういう学問もあるのかと思いをはせることはあってもいいだろう。ただ,疫学者として1ついうならば,惜しむらくは統計の使い方がもう少し適切であったらなあ,ということであろうか。