最近関わっている研究・教育活動


国立保健医療科学院疫学部 土井 由利子
プロフィール


 心の健康状態がご本人の身体の健康状態だけでなく家庭生活や社会生活,ひいてはその地域全体の健康や活力や暮らしやすさといったものとお互いに影響し合っている様子を目の当たりにし,これまで臨床の場面の中で患者さんやご家族中心に向き合ってきた自分の中の基軸が大きく揺すぶられる衝撃を受けました。


 今年(2004年)で大学を卒業して24年目となります。自治医科大学を卒業後10年間は僻地医療と救急医療に従事し,その後3年間,環境保健行政に携わったことを契機に疫学に興味を持つようになりました。行政の仕事は多岐にわたりましたが,とくに患者さんの検診・家庭訪問・健康相談などを行う中で,心の健康状態がご本人の身体の健康状態だけでなく家庭生活や社会生活,ひいてはその地域全体の健康や活力や暮らしやすさといったものとお互いに影響し合っている様子を目の当たりにし,これまで臨床の場面の中で患者さんやご家族中心に向き合ってきた自分の中の基軸が大きく揺すぶられる衝撃を受けました。人々の集団における心の健康状態は容易に目に見えるものではありませんし簡単に測定できるものでもありません。また仮に測定できたとしても,人の心そのものが揺らぎの大変大きいものであり,また逆に揺らぎがあってこそ人の心とも言えます。人々の集団における心の健康状態とは,茫漠としている状態であり,その茫漠性のありのままを科学的に見てみたい,という気持ちで精神疫学の道に歩を進め10年(その間アメリカで2年)が経過しましたが,課題は大きく自分の非力を痛感する日々です。1995年より国立保健医療科学院(旧国立公衆衛生院)疫学部で研究・教育に従事しています。最近私が関わっている研究・教育活動から少しご紹介をさせて頂きたいと思います。

睡眠障害の疫学

 科学技術庁「日常生活における快適な睡眠の確保に関する総合研究」(1998‐2002年)の中で,基礎研究,臨床研究とともに初めて疫学研究(主任研究者:簑輪眞澄)が行われることになりました。主なテーマは,睡眠に関する評価尺度の開発,日本人一般成人における睡眠障害に関する疫学研究,一般勤労者における睡眠障害の疫学研究です。
 不眠症を中心に睡眠障害について,欧米では2,30年以上も前から地域における大規模な疫学研究が行われており,種々の評価尺度の開発も進んでいました。日本におきましても特定の地域や集団(高齢者や交代勤務者など)における先行研究の蓄積はありましたが,日本人一般成人を対象にした全国調査が行われたのは,1998年に実施した本研究と同年に健康づくり財団が実施した調査が初めてでした。両者はサンプリングやデータ収集方法や質問項目等に多少違いがありますが,この2つの調査により日本人の約5人に1人が何らかの不眠の症状を有していることが推定され,睡眠問題が社会的にもクローズアップされる契機となりました。私自身にとりましては,自記式質問紙を用いたこのような大規模な疫学研究に参加したのはこの調査が初めてで,調査票の作成,対象者のサンプリング,調査用紙の発送・回収など疫学調査の基本をこの調査を通じ学ばせて頂きました。調査方法は,郵送法による無記名自記式質問紙を用いましたので,回収率がどのくらい得られるのか最後まで見当がつかず,回収期間中戻ってきた回答用紙を毎日カウントしながら最終的に約68%となるまで眠れない夜が続いたことが笑い話として思い出されます。この結果をまとめた論文が初めてJournal of Epidemiology(2000年)に掲載され,そういった意味でも,私にとりましては思い出深いものとなりました。睡眠に関する評価尺度につきましては,当時海外で臨床研究や疫学研究に汎用されていたピッツバーグ大学精神科教室で開発されたピッツバーグ睡眠質問票(PSQI)を開発者の許可を得て日本語版(PSQI-J)に翻訳し,信頼性・妥当性の検証を行いました。PSQI-Jは睡眠を時間だけでなく質や日常生活における支障の程度も併せて総合的に評価することのできる尺度です。詳細は,睡眠障害の診断と治療ガイドライン(じほう,2002年)に掲載していますのでご参照頂ければ幸甚です。
 前述しましたように,交代勤務者を対象とした睡眠に関する調査研究はこれまでにも多くの蓄積がありましたが,一般の勤労者(ホワイトカラー)を対象とした研究は国内外ともに少なく,睡眠が勤労者の健康やQOLなどに与える影響や関連要因について検討したものはあまりありませんでした。そこで,首都圏の一般企業に勤務するホワイトカラーを対象に調査を行いました。PSQI-Jを用いて評価した睡眠障害と病気による欠勤,主観的健康感,QOL(仕事,人間関係)との間に有意な相関を認め,ストレスや仕事への不満足などがその大きな要因として推測されました。また,睡眠時間が6時間未満,不規則な睡眠・覚醒リズム,抑鬱気分などの要因が日中の過度の眠気と有意な関連のあることも示唆されました。一般勤労者における睡眠の問題は,産業保健スタッフの間では経験的に重要な問題であるとの認識があったのですが,疫学的に一つのエビデンスが提示されたことにより,快適な睡眠の確保の重要性が再認識され,職域におけるより積極的な睡眠衛生の取り組みが始まりつつあります。
 「健康日本21」の中に示されている9つの分野(栄養,運動,休養・こころ,たばこ,アルコール,歯,糖尿病,循環器病,がん)の「休養・こころ」では,2010年までに,自殺者の減少(3割以上),最近1か月間にストレスを感じた人の割合の減少(1割以上)とともに,睡眠によって休養が十分にとれていない人の割合の減少(1割以上)および睡眠補助品(アルコールを含む)を使用する人の割合の減少(1割以上)の目標値が設定されています。地域や職域における快適な睡眠の確保に向けてより一層の取り組みが必要になってくるものと思われます。

行動科学

 1996年より国立保健医療科学院では専門課程(公衆衛生修士コース)および特別課程(生活習慣病対策コース)の中に行動科学のカリキュラムを取り入れています。内容は,院内外の講師による行動科学概論(理論やモデル),保健行動の基礎,学習理論と行動分析,禁煙サポート,体重コントロール,運動習慣形成支援,コミュニティ・オーガニゼーションとコミュニティ・ビルディングなどの講義から構成され,昨年教科書として発刊されました(行動科学-健康づくりのための理論と応用,南江堂)。行動科学の他にも短期集中型の生活習慣病対策コースや疫学統計コースなど多様なカリキュラムのメニューが提供されていますので関心のある方はホームページ(http://www.niph.go.jp)をどうぞご参照下さい。