「人々が目指す健康な社会」を考え続けて


順天堂大学医学部衛生学 黒沢 美智子
プロフィール


 途上国で不健康な人は生き残れませんし,病んでいる時間は短く,必然的に目の前にいるのは健康な人ばかり。次第にわからなくなりました。自分の目で見る経験は貴重でしたが,ある断面を見ていたのではわからないことも多く,見えないものを見る力を養う努力が必要だったと今では思っています。そして私は人々が目指す健康な社会とはどういうものか,一から考える気持ちになり,このテーマは今でも心の奥で静かに漂い続けています。


悩み多き頃

 大学生の頃,疫学の講義演習を受けて,面白いなぁと思い,卒研で疫学を選択しました。現在杏林大学野山修教授がされていた神奈川県某市の妊婦健診受診者の追跡調査データの一部を用いて妊娠中の増加体重と出生児の体重などの分析結果を卒論にした(?)ように思います。卒業後,就職しましたが思うところがあって,途上国の健康問題をテーマに再び杏林大学大学院に進みました。この頃は基本的に体力任せ(今も変わらず)で,とにかく突き進み,気が付くとラオス国境近くの東北タイの村で農家に滞在していました。村の皆さんの協力で4週間の健康状態と,利用した保健資源や保健行動を記録していただきました。村では呪術師が精霊に病気の問いをする場面に偶然居合わせたり,興味深いものがありました。しかし,まとめるには困難を極め,能力の限界を感じました。元々私の頭の中には途上国の住民は医療から遠く苦しんでいるというイメージがありました。確かに村は保健医療資源に乏しかったのですが,村人は皆健康そのもの,子供達は元気はつらつ。私の目の前にいたのは数々のリスクをものともしなかった強靱な人々でした。途上国で不健康な人は生き残れませんし,病んでいる時間は短く,必然的に目の前にいるのは健康な人ばかり。次第にわからなくなりました。自分の目で見る経験は貴重でしたが,ある断面を見ていたのではわからないことも多く,見えないものを見る力を養う努力が必要だったと今では思っています。そして私は人々が目指す健康な社会とはどういうものか,一から考える気持ちになり,このテーマは今でも心の奥で静かに漂い続けています。

東山梨コホート,ヘリコバクターピロリ,難病,倫理,etc.

 大学院修了後に順天堂大学医学部衛生学教室に入りました。稲葉裕教授が東山梨地域をフィールドに大規模コホートの一部を担当されていたので,菊地正悟先生他,内外の先生方と共に6−7名で,年に数回ワインで有名な勝沼町の周辺にフィールドトリップしていました。30歳以上の住民の9割をカバーする9000人以上のベースラインデータを集めたのは1989年。私はまだ在籍していなかったので,フォローアップから参加しました。数年間は死亡や転出,地域の健診データなど,追跡データ集めに費やしました。5年分の追跡データで内外の先生方と東山梨地域における生活習慣と成人病発生の関連性について,死亡をエンドポイントにした分析や地域の健診データとベースラインをリンクさせて健診データに関連する要因についての分析をしました。追跡は今も継続しています。
 同時期,教室では突然死のリスク要因の研究やがん検診の間に存する共通の問題点に関する研究も行っていたので,フィールドだった長野県に時々訪れてデータ集めをし,剖検輯報のデータベースと格闘し,細かいデータにクラクラしながら死亡前正診のないいくつかの癌の推計などにも関わりました。それから,菊地先生の血清ペプシノゲン検査のがん検診への応用に関する検討やヘリコバクターピロリ菌への感染リスクの研究などにも関わり,よく訪れていた長野県で保健所や教育委員会のご協力を得て小中学生のヘリコバクターピロリ菌の陽性率を2年間測定し,陽性者のリスク要因の分析をすることができました。
 この頃,疫学研究の倫理の問題について昭和大学故中村健一教授を中心に調査が行われ,健康情報収集・利用に際しての被調査者の意識調査や疫学会会員の意識調査にも関わりました。
 一方,稲葉教授が厚生省特定疾患研究班の分担研究者をされていたので神経性食思不振症の全国調査の分析をする機会もあり,膿疱性乾癬のプールドコントロールを用いた症例対照研究を論文にしたりしていました。稀少難治性皮膚疾患の天疱瘡の予後調査,ベーチェット病の予後調査を実施し,予後に関連する要因を分析しようと試みたものの,追跡不能例が多く悩みました。
 ちょっと変わった研究ではベジタリアンで禁酒禁煙を実行しているセブンスデーアドベンチストというグループを対象とした生活習慣調査も多くの先生方と行っていました。追跡調査を検討していましたが,実現には至りませんでした。

難病研究の割合が多くなったけど,コホート研究も現在進行形

 平成11年より稲葉教授が特定疾患の疫学に関する研究班主任研究者になったことに伴い,事務局を務めています。班として実施している研究は数多くありますが,私自身はベーチェット病,パーキンソン病患者の保健医療福祉ニーズの把握,特定疾患治療研究事業対象疾患の選定方法に関する検討に関わり,ベーチェット病,水疱型先天性魚鱗癬様紅皮症の全国疫学調査の担当をし,難治性血管炎の臨床調査個人票利用の検討などをしています。ベーチェット病,天疱瘡の予後調査で追跡不能となった不明例への対応から,ベーチェット病のQOLの予後調査にも取り組むことになりました。最近,難病研究の割合が多くなっていますがコホート研究も継続しています。東山梨コホートで集積された11年分の死亡データを用いて,胃がんのリスク要因の分析を現在進行形で行っています。
 毎日,毎週同時進行でいろいろな研究テーマに向かって仕事をしてきましたが,この生活は現在も変わらず続いています。