日本疫学会の一層の発展を願って


九州大学医学部名誉教授 廣畑 富雄


 日本疫学会が発足したのは,1991年,平成3年の1月である。この発足に関しては,多くの方々のご努力があったわけだが,中でも青木國雄先生の貢献が大きかった事は,皆の知るところであろう。以来10年有余の歳月が流れた。この時点で,初代の理事長を仰せつかったものとして,いくらか感想を書いてみたいと思う。もし会員の方々,とくに若い方々のご参考になれば幸いである。

当初はJournal of Epidemiologyの充実が大きな課題

 この10年を顧みて,日本疫学会が順当な発展を遂げてきた事は,ありがたいし,非常に嬉しい事である。いま思い返してみると,私がお世話をしている間,生まれたばかりの日本疫学会という赤ん坊は,本当に皆さんのご協力で,順調に育って行ったと思う。1995年に,いわゆる定年制で役職から離れた時点を振り返ってみると,なにぶん発足して4年しか経っておらず,日本疫学会は順調な発育を遂げたとはいえ,問題がいろいろ残されていた。たとえば機関紙Journal of Epidemiologyの充実が,大きな問題であった。その後J.Epid.は,quarterlyからbimonthlyの発行になり,内容も充実し,Index Medicusにも収録されるようになった。日本医学会の分科会として,日本疫学会を認知してもらうことも,大きな懸案であった。これもやがて加盟が認められた。これらは当時の柳川洋,ついで田中平三理事長をはじめ,多くの方々のご努力よるもので,敬意を表したいと思う。

multi-disciplinaryな学会へ

 私が学会のお世話をする立場で希望していたことの一つは,日本疫学会が,多方面の分野の人を取り込み,真にmulti-disciplinaryな学会になる事であった。疫学的研究には,多方面の方の協力が必要である。発足時には,主として衛生・公衆衛生の方々を基盤とするものの,多分野の方々,とくに臨床サイドの参加を望んでいた。いま日本疫学会ニュースレターの第1号(1992年12月)を読み返してみると,当時の国立循環器病センター,尾前照雄総長の,日本疫学会発足を祝った言葉がある。その書き出しを引用してみたい。 「私は日本疫学会の誕生を,心から喜んでいるものの一人である。私はかねてから,日本の臨床医学の大きな弱点の一つは,その中に疫学的思考の取り入れられ方が少ない,という点にあると思ってきた----」 心ある臨床の方々は,疫学の重要性を強く認識しているものと思う。臨床サイドの参加は,残念ながら私の在任期間も満足すべきものではなかったし,多分現在でもそうであろうと思う。臨床疫学は,ご承知のように,Evidence Based Medicineの名のもとにここ10年で大展開をみせた。現在の日本の臨床医学は,その全分野で,EBMなくしては成り立たない状態になった。日本疫学会の今後を考えると,いろいろ難しい点はあるものの,今後一層多方面の方の参加,臨床サイドを含め,多方面の方の参加が望まれる。

わが国で疫学を更に認知させることが重要

 ご承知のように,疫学は実証主義を重んじる英米で大きな発展を遂げた。ドイツ医学,メカニズムを重視するドイツ医学の流れをくむわが国では,とかく疎んぜられる傾向にある。わが国で近代疫学の先駆者といえば,明治の初め,ビタミンB1同定の遙か前に,脚気の予防に大成功を収めた高木兼寛先生であろう。その背景には同先生が,海軍軍医として,若くして英国流の医学教育を受けた事実がある。たまたま最近NCIをたずね,疫学部門のdirector,Dr. Fraumeniに会う機会があった。昔机を並べて勉強した仲間である。彼のNCIの疫学部門に,200人のstaffがおり,うち100人はprofessionalで,年間の予算は80million dollars,日本円で約100億円だという。Epidemiology monitorというcirculationがある。それに私は若干関わっているが,毎号疫学者に対する求人が,数え切れないぐらい掲載されている。わが国で疫学を,学問の世界で,また一般社会にもより認知させ,その評価をより高め,さらなる発展を図るのは,疫学者にとり,また日本疫学会にとり,非常に重要な事と思われる。