疫学研究に関する倫理指針の施行・健康増進法の成立と地域がん登録事業


大阪府立成人病センター調査部 大島 明


 的確ながん対策を立てて評価する上で必須のがん登録事業を,プライバシー権にもとづく本人同意の原則とどのように調整し社会的承認を得るようにするかは,きわめて重大な課題である。最近のプライバシー権に対する関心の高まりの中においてこそ,地域がん登録事業の必要性に関して広く国民に理解を求め,プライバシー権と公益のバランスをどうとるかに関して議論することが必要である。「指針」策定のための委員会での議論だけにとどまらず,広く国民と議論する努力を通じてはじめて,国民の理解のもとに,多くの先進諸国と同様に,地域がん登録事業を法的裏づけのある事業として整備し,地域がん登録からの精度の高い情報をがん予防対策の政策決定の基盤として位置づけ,さらに一層公衆衛生の向上に役立てることが出来ると考える。


 「疫学研究に関する倫理指針」(以下「指針」という)が6月17日の官報に告示され,あわせて,同日付で大学等の長や都道府県知事はじめ関係機関の長に対して,文部科学省研究振興局長と厚生労働省大臣官房厚生科学課課長の連名で,通知がなされた。「指針」は既に7月1日から施行されている。(これらの文書は厚生労働省のホームページの次のURLから見ることが出来る。http://www.mhlw.go.jp/general/seido/kousei/i-kenkyu/index.html)。個人情報保護法案と疫学研究,そして「指針」の策定の経過に関しては既に多くの方が本ニュースレター上で論じてこられたので,小文では地域がん登録事業に限って述べることとする。

地域がん登録事業は審議会等の承認を得て継続実施へ

 上記通知に付された別添3「疫学研究に関する倫理指針とがん登録事業の取扱いについて」によると,がん登録事業の計画の審査については,実施主体である地方公共団体が定める審議会等が行うこと,「指針」が準用される場合,がん登録事業におけるインフォームド・コンセント等の扱いは,指針の原則に従えば概ね7(2)Aイ(人体から採取された試料を用いず既存資料等のみを用いる観察研究)及び11(他の機関等の資料の利用)に該当するが,計画の審査に当たる審議会等の判断で,がん登録事業の特色から,他の適切な措置を講じることがあり得るものと考えられる,とされている。従って,「本人の同意を得ないでデータを収集し利用する地域がん登録事業」については,審議会等の承認を得て,これまでどおり継続実施する道が開かれることとなった。既にこれらの手続き・手順をクリアしている登録室も多いが,まだクリアしていない場合には,必要な作業が進められているところである。

法的整備をより積極的に進めることが必要

 ところで,これで万事解決かというと決してそうではない。次の臨時国会に継続審議となった個人情報保護法案においても,利用目的による制限(第21条)や第3者提供の制限(第28条)では,「公衆衛生の向上のために特に必要がある場合であって,本人の同意を得ることが困難であるとき」は,適用除外とされていた。今回のがん登録事業の取扱いは,個人情報保護法案においてがん登録事業が本人同意原則の例外となりうるが示されたことに加えて,「指針」との関連で,本人同意原則の例外とする手続き・手順が示されたものに過ぎない。このような消極的な扱いにとどまるのでなく,より積極的に国が,地域がん登録事業の位置づけを明確にし,府県に対してがん登録事業条例を制定するよう指導し,さらに,届出の義務規定と安全保護の規定を含む地域がん登録事業の法的整備を進めることが必要である。以下,この点について考えるところを述べることとする。

見劣りするわが国の地域がん登録システム

 地域がん登録は,「一定地域に居住する人口集団において発生したすべてのがん患者を把握し,その診断,治療に関する情報,ならびに予後情報を集め,保管,整理,解析すること」と定義される。わが国の死因のトップを占めるがんの実態を把握し,がん対策を企画・立案に役立て,さらにがん対策を評価・モニターするための必須の仕組みとして,地域がん登録システムの整備を図ることは,Evidence-based Healthcareを実践していく上できわめて重要な課題である。2002年度には,日本全国で32道府県市において,地域がん登録が事業として実施されている。わが国の地域がん登録は,中央登録室の予算面および専門スタッフ面の制約,病院における診療情報管理の未整備,国レベルにおけるがん登録事業の不明確な位置づけなどの問題点のため,英国や北米,北欧諸国などの先進国と同等の精度のものは少ない。また,アジアの中でもシンガポールや韓国に比べてもかなり見劣りのするシステムのままにとどまっている。このことは,「5大陸におけるがん罹患」第7巻(WHO/IARCから発行,50ヶ国150登録の1990年を中心とする5年間のがん罹患データを収載,わが国からは6登録室のデータが収載されている)からも明らかであるが,本年6月25,26,27日にフィンランド・タンペレで開催された第24回国際がん登録学会に参加して「このままでは,日本はますます世界の動きから取り残されてしまう」と改めて感じたところである。なお,現在,WHO/IARCでは第8巻(1993−97年罹患データ)が編集中で2002年中には発刊される予定であるが,宮城,山形,大阪,佐賀については国際的な基準に照らして登録精度が低いため(死亡情報のみによる登録が10%以上),これに注意を促す*印つきの条件付掲載の予定とのことである。

プライバシー権と公益のバランスをどうとるか

 一方,昨今の個人情報保護法制定への動きの中で,地域がん登録事業は本人の同意をとらないでデータを収集し,利用する疫学調査の典型例としてマスメデイアでしばしばとりあげられ論じられてきた(最近では,讀賣新聞01年11月18日朝刊 論説委員三木健二:(コラム自由席)がん登録事業,河原ノリエ:自治体による「がん登録」を知っていますか.「中央公論」02年4月号pp.178-188,河原ノリエ:無断で使用される医療カルテ.カラダの情報は誰のものか.サンデー毎日02年5月26日号pp.134-139,朝日新聞02年5月30日夕刊大阪版,『「がん登録」同意なし』の見出しの記事,東京版では『「がん登録」本人素通り』の見出しの記事など)。的確ながん対策を立てて評価する上で必須のがん登録事業を,プライバシー権にもとづく本人同意の原則とどのように調整し社会的承認を得るようにするかは,きわめて重大な課題である。最近のプライバシー権に対する関心の高まりの中においてこそ,地域がん登録事業の必要性に関して広く国民に理解を求め,プライバシー権と公益のバランスをどうとるかに関して議論することが必要である。「指針」策定のための委員会での議論だけにとどまらず,広く国民と議論する努力を通じてはじめて,国民の理解のもとに,多くの先進諸国と同様に,地域がん登録事業を法的裏づけのある事業として整備し,地域がん登録からの精度の高い情報をがん予防対策の政策決定の基盤として位置づけ,さらに一層公衆衛生の向上に役立てることが出来ると考える。今後さらに努力を続けて行かなければならない。なお,欧米では,地域がん登録はがん対策を実施する上での必須の仕組みと位置づけて,個人情報保護の高まりの中においても,地域がん登録について,公衆衛生上の必要性から,適切な個人情報の安全保護措置の規定のもとで,本人の同意をとらなくてもデータの収集と利用がおこなえるよう法的に整備している。また,各登録では,IACR(国際がん登録協議会)が1992年に作成したがん登録のための機密保護ガイドラインを遵守してきた。なお,1995年のEU指令95/46/ECを受けてEU各国では個人情報保護の法的整備がすすめられ,これを受けて欧州がん登録ネットワークではガイドラインを2002年に改訂している。http://www-dep.iarc.fr/encr.htm

「健康増進法」は地域がん登録事業がその役割を果たすための第1歩

 ところで,7月26日に医療制度関連法の一環として国会を通過して成立した「健康増進法」の第16条では「国および地方公共団体は,がん,循環器病その他の生活習慣病の発生の状況の把握に努めなければならない」としている。さらに具体的には,国立がんセンターにがん予防・検診研究センター(仮称)を新設し,この情報部門の重要な機能のひとつとして記述疫学的データの収集・整理にあたる予定との情報にも接した。ようやく国が,他の先進諸国と同様に,地域がん登録事業におけるその役割を果たすための第1歩を踏み出したものと大いに期待している。