疫 学 と 臨 床


国立循環器病センター名誉総長 尾前 照雄


 高血圧が生命予後にかかわる重要な所見であることを最初に公表したのは臨床医ではなくシカゴの生命保険会社の医師Fisherであった。彼は生命保険加入者の診査には必ず血圧の測定を行うべきことを臨床医よりもはるかに早く1911年に提唱している。1930年頃までは臨床医には未だその認識は低く,標準的な内科学の教科書や医学教育にもそのことはほとんど触れられることはなかったという。


 生活習慣病の呼称が提唱されて数年が経過し,行政機関,マスコミ,国民の間にもこの名称が定着してきた。そもそもこの病名は成人病と同じように病名として世界に通用するとは限らない。成人病といえば成人期以後におこりやすい病気を意味するが,成人になることは防げない。生活習慣病といえば生活習慣の是正,改善によって予防できるという願いが言葉のなかにこめられている。予防に深い関心をもって国民の健康保持,健康寿命の延長を期待してこの名称が採用されたのである。

日本の臨床医は予防医学にもっと関心を

 昨年5月末,筆者は日本循環器学会と日本循環器管理研究協議会の主要な方々の協力を得て第5回国際循環器病予防会議(International Conference on Preventive Cardiology)を大阪で開催した。この会議を通じて感じたことは,日本の臨床医は未だ未だ予防医学に関心がうすいということであった。
 初日,歓迎レセプションにはDr. Stamlerをはじめ欧米の代表的な予防医学者が多く参加されたが参加者の多くは外国の方々で,外国で行われる会議に少数の日本人が参加した格好のように思えるほどであった。4年前のカナダのモントリオールで行われた第4回会議への日本の参加者はさらに少なかったのであるが,臨床関係の国際会議には日本からの参加者が多く外国の人たちの関心を引くほどになっていることを思うと,日本はこれから予防に力を入れる必要性を強く感じた次第であった。

臨床医学と疫学,公衆衛生学の連携が不可欠

 近年EBM(Evidence Based Medicine)の言葉がほとんど流行語のように使われているが,それはとりも直さず臨床判断のもとになる実証された科学的根拠が日本には乏しいことを一方では物語っているように筆者には思えるのである。欧米のデータを多くその根拠としてとり入れた日本人向けの診断・治療のガイドラインが各種疾患について作られているが,疾病の自然歴(natural history)と治療の効果を示す日本人のデータは甚だ乏しいのが現状である。その点においては日本は未だdeveloping countryの域を遠く出ておらず欧米追随の治療医学,予防医学ではないかといわれても致し方がないとさえ思う。その克服のためには臨床医学と疫学,公衆衛生学の連携と共同作業が必要不可欠である。それが真に国民のためになる医学・医療の道をひらくことにつながり,外国に輸出できる予防医学・臨床医学を生む基盤になると信じている。

生活習慣病の予防と管理・治療に果たすべき疫学研究の役割は重要

 Riva Rocciが非観血的血圧測定装置を考案発表してから100年以上が経過したが,高血圧が生命予後にかかわる重要な所見であることを最初に公表したのは臨床医ではなくシカゴの生命保険会社の医師Fisherであった。彼は生命保険加入者の診査には必ず血圧の測定を行うべきことを臨床医よりもはるかに早く1911年に提唱している。1930年頃までは臨床医には未だその認識は低く,標準的な内科学の教科書や医学教育にもそのことはほとんど触れられることはなかったという。
 高血圧は本来,無症状であるし,それ自体が疾病あるいは心血管病のリスクファクターとしての意義に関しては,臨床医よりも大きな集団についての血圧の登録と追跡を行い得る健康管理医ないし疫学研究者の方がその実体を知るのにはるかに適している。米国のFramingham研究が世界の循環器病の診断と管理・治療の上に如何に大きな役割をもってきたかについては多言の余地はないであろう。
 生活習慣病も本来無症状であることが特徴である。その予防と管理・治療に果たすべき疫学研究の重要性は如何に強調しても強調しすぎることはないであろう。その方法と研究態勢は治療効果の評価(いわゆるclinical trial,治療研究)にも通ずるものである。医師のみならず健康にかかわる多くの職種の方々との共同作業がその基盤に必要なことはいうまでもない。疫学界の役割と任務は今後ますます大きくなって行くであろう。飛躍的な発展を心から期待して止まない。