語り継ぎたい日本の結核疫学
(1920−1950年代)


財団法人 放射線影響研究所 臨床研究部顧問 細田 裕
プロフィール


 Snowのコレラ,高木兼寛の脚気研究は巷でも知られているが,世界に類を見ない日本の結核疫学研究は語り継がれているだろうか?わが国では1930年に初の疫学研究室が置かれたが,戦後になっても市民権を得られず,某帝国大学紀要は疫学論文を調査統計として,門前払いしていたほどであった。


プロローグ:

 Pirquetが90%以上のウィーンの学童はツ反陽性であることを観察(1907)して以来,欧州では結核の感染は小児期までに終わり,青年になって発病するとの考えが根強かった。その後,ノルウェーのHeimbeck(1929)はツ反陰性の看護学生達が結核病棟に勤務して発病すると,ツ反が陽転しているのを発見した。わが国では小川勇(1913),有馬英二(1929)が軍隊新兵の「特発性肋膜炎」はツ反“陰性者”から発生することを報告し,北欧と日本で初感染発病説が台頭し始めた。

1)感染指標の確立――ツベルクリン反応の標準化――

 1940年頃になっても,わが国のツ反の判定基準はまちまちで,旧ツ(OT)液(現在はPPD)の希釈濃度,量,注射法(皮下,皮内,乱刺),計測指標(発赤,浮腫,浸潤,硬結),測定までの時間の標準化がなかった。1931年,海軍軍医中佐小林義雄は岡治道らの協力を得て「ツ・アレルギーと肋膜炎」と題する結核病学会宿題報告(学会誌100頁に及ぶ)を行った。彼は海兵団新兵5,597名に1,000倍OT液0.1cc,マントー皮内,48時間測定を行ったところ37%が陰性であった。その後毎月のツ反検査で「ツ反陽性転化」(小林の命名)66名を発見し,当時アレルギー性疾患と看做されていた肋膜炎がツ反応陽転後早期に起きることを述べた。翌年,太田良海,相沢秀雄,岡治道はツ反記載には分母に硬結,分子に発赤,2重発赤を括弧に入れることを提案(1932),現在も受け継がれている(「結核」誌は前年まで縦書きで,和用数字を用いていた)。1920年代にHarvard大学で学んだ野辺地慶三は約1,100名の東京府下の工場青少年に2,000倍OT液,0.1mlの皮内注射を行い,「硬結,浮腫より発赤のほうが測定誤差は少なく,24時間より48時間測定が合理的。発赤の大きさによる反応の度数分布曲線は双峰形であって7-8mmの谷においては非特異反応曲線及び特異反応曲線が交叉して作る合成曲線と考えられる。従って発赤5-9mmを疑陽性とし,4mm以下を陰性,10mm以上を陽性とするのが妥当と考えられる。以上の判定基準は2,000倍OTによる場合のみに適用する」ことを記した(1941)。国際的には硬結が重視されているが,野辺地が発赤を重視したのは,測定誤差が小さいという理由であった。この方法による判定基準設定はわが国が最初で,爾来,世界の国々の模範となった。

2)陽転者コホート研究――感染と発病の関係の確立――

 上記,小林,岡らは1930年代にはしばしば渋谷の小林邸に集まって深夜まで初感染結核の議論を重ねたという。その間に,東京湾遠泳の後に発生した粟粒結核海兵の剖検で岡は「病変は結核初期変化群に類似している」ことを知り,青年期の感染発病を臨床病理学的に推論した。岡の指導を得て千葉保之,所沢政夫は関東地区鉄道従業員約5万人を対象とする今で言う結核検診を行い(1941−42開始),ツ陰性者には3−6月ごとにツ反を行い,陽転を確かめた。X線検査には間接撮影実用器第一号(古賀良彦1935報告)を使用したが,良質画像を得るために,千葉は当時日本では入手できなかったf1.5の明るいレンズ付きの高価なコンタックスをドイツ海軍将校から譲り受けた。検診の結果,5,200名の陽転者コホートができた。3カ月毎のツ反検査で陽転を確かめたBCG未接種の2,007名のコホートを特に解析したところ,陽転1年以内に16%に病巣が発見された。(東京地区1,383名に限ると22%)。それ以後3年間は発病ゼロ,その後も年間発病率は1%前後と著しく低いことを明らかにした。主な資料は千葉がリュックで背負って戦火を逃れ,1948年に千葉保之,所沢政夫著「結核初感染の臨床的研究――結核症の発生機序」(保健同人社刊,絶版)が英和文でザラ紙出版された(所沢は直後に触車事故で急逝)。写真印刷はできず,写し絵スケッチが載っている。この研究は結核の自然史を観る上で,後にも先にも望み得ない貴重な記録である。戦後日仏交換第一回留学生北本治はこの本がパスツール研究所に保存されているのを確かめている。

3)介入研究――陽転者化学予防――

 自然陽転者の発病予防には生活指導以外に積極的対策が無かった。このためBCG 陽転後の学童までが,炎天下の夏のプールを禁止される行き過ぎも起きた。国鉄では陽転者発見の為毎月陰性者ツ反追及を行っていたので,千葉保之,高原義(後に梅沢勉参加)は当時の新薬PAS(合成1946)を用いた陽転者予防投与(後に,化学予防と命名。chemoprophylaxisの直訳が普及)を計画した。陽転後間も無い抗結核剤投与はツ・アレルギーの消失をきたすとか,耐性菌が起きるなどの批判も少なくなかったが,柳沢謙,重松逸造の助言も得て,東京地区でdouble blind testの試行に踏み切った。ツ反陰性者全員に,1−3月ごとのツ反検査を実施していたので,自然陽転者は順次entryされ奇数は投与群,偶数をplacebo群とされた。BCG陽性者を除くため,1年以内のBCG接種者は除外した。1951−52年PAS6カ月,1953−54年には最新薬INH単独3カ月,1955−56年にはPAS+INH3カ月投与を行った。毎月の投薬時ごとにX線,ツ反,採血など慎重な検査を行った。少数の脱落はあったが,重篤な副作用は無かった。見かけの発病率はどの薬剤群でも投与群の方がplacebo群より明らかに低かったが,各薬剤群の登録は約100 組(200例)がせいぜいで,有意差は望むべくも無かった。例えば1951−52年開始のPAS群44−67月間追跡観察では,投薬群の発病率は3.4%,placebo群 10.2%であった。この成績を基に,1955年からは,化学予防を全国鉄と警視庁で導入し,全国コホートの投与群1414例の発病率は0.7%,対照群では1.5%であった(約12年間の追跡報告1970)。1959年IstanbulのIUAT学会結核化学予防シンポジウムには千葉保之,高原義,梅沢勉の他,子供の化学予防を開始(1956年)したRoma大学Forlanini(人工気胸の創始者1888)研究所のOmodei Zoriniが招かれた。(余談だが,同行した筆者は千葉保之,隈部英雄の推薦でForlanini研究所 と初感染発病研究のUppsala 大学〔Hedvall教授)〕にそのまま留学した〕。10数年前,筆者はカルカッタのマザーテレサの子供の結核病院を訪ねたことがあった。ボランティアの米国大学生に結核感染の危険について尋ねたら,国を出る前,ツ反陰性だったので,帰国して陽性になっていれば,抗結核剤を飲みますとのことで,陽転化学予防の普及を肌で感じた。

エピローグ:

 コンピューターのない時代に鉛筆と算盤で数千人を解析された先達の結核疫学研究を紹介した。やがて,世のニードは非感染症の疫学に移行したが,結核時代に培われた豊富な疫学経験から速やかな対応が可能であった。OxfordのDoll卿と並び称される重松逸造や日本疫学会の創始者の一人青木國男も結核疫学から出発している。しかし結核に留まって,優れた疫学研究を続けている結核予防会研究所,特に島尾忠男ら疫学一門のあることも付け加えておきたい(文中敬称略)。最後に,筆者は,野辺地慶三,岡治道,千葉保之,重松逸造先生から直接,懇切なご指導をいただくことが出来た生涯の幸を深く感謝する。

(手頃な参考書:岩崎龍郎著 日本の結核: 財団結核予防会 平成元年版 83ページ。絶版.結核研究所図書館等所有)

岡 治道(1891-1978)
初感染発病を提唱した病理学者。結核研究のリーダー

野辺地 慶三(1890-1978)
わが国疫学の祖。
ツ反の標準化に貢献

千葉 保之(1908-1998)
初感染発病のコホート研究,結核化学予防の創始者